樺太 閑話(アイヌ問題)
少しく「北の問題」の名残りを留める話題を記していく。
■道方針、協会に指導
道は26日の道議会予算特別委員会で、アイヌ民族の人たちの認定を厳格化する方向で検討する方針を示した。
現在の戸籍ができる以前の「改製原戸籍」で確認することなどを検討している。
北海道ウタリ協会(現・北海道アイヌ協会)の羅臼支部の会員数が不自然な形で急激な増減をしたことに批判が集まったためだ。
また、大学修学のための学費貸与額のほとんどが減免されていたことについても、今後は返還を前提とした制度を設ける考えを示した。
ウタリ協会羅臼支部では96年に会員数が2人だったのが翌年は208人に急増。
02年には一転して74人に減少していた。
道の調査では、当時の支部長が組織力を高めるため、家族全員を会員としていたという。
また、「アイヌの人以外の人も会員になっていたようだという証言も得た」とした。
これまで、アイヌ協会の会員資格は、協会の支部長や市町村長の推薦で決まるところが大きかった。
道は「アイヌ協会に対して厳格な審査を行うよう指導したい」として、認定基準も厳格化する方針を固めた。
大学進学のための学費貸与制度で、07年度で約千人、計約25億円の貸与額のほとんどが減免され、返済額は160万円にとどまっている。
これについても「返還を前提とする制度が望ましい」として、今後、制度のあり方を検討するという。また、この制度についてアイヌ協会加入者以外のアイヌの人の利用率が低いことも問題視し、今後、広く制度を周知する考えを示した。
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000000906270003
基本的スタンスとして。
現行アイヌ民族と云われる人達は、「日本人」であると考えている。
正直、アイヌ民族と云われる人々と、俗に「大和民族」と云われる人とを明示的に区別する理由が解らない。文化の差異で区別を要するというのであれば、夫れは夫れでいいだろう。だが、夫れは文化圏の判別であって、民族的・人種的に差異があるという物ではない。
従って個人的には先住民族保護法案には或種反対である。勿論文化の継承は昔日の同化政策と異なり有って然るべきだろう。だが、夫れは文化保護であって、アイヌの人々に利得権を与える物であってはならない物の筈である。和人種、アイヌ、沖縄、全て引っくるめて「日本人」である事をもっと自覚した方がいいのではないかと考える。
DNAとしては、所謂「日本人」と「アイヌ民族」は同一であり、他民族間に見られる差異は生じてない。
抑々、日本の歴史は皇祖皇宗を中心とした記述となるならば、神武東征以来の東征・北征の連綿たる歴史であり、大八洲ですら其完全配下に治め得たのは肇国以来平安城に遷都されてからの事だ。
其出発点たる日向を中心とした九州ですらも東征以降「熊襲」と号された地方部族衆が反旗を翻したりしている。
勿論、「熊襲」と云われた九州人は当然「日本人」である。
嘗て、日本建尊が東征を成し、北征に迄其出師を伸ばし、蝦夷と呼ばれる人達の頑強な抵抗と帰順にあった。
北征の歴史は茲から始まるのであり、軈て東北、渡島を経て、現北海道と称する島から千島、樺太、果ては勘察加迄其版図を拡げて行った。御稜威を大八洲に拡げる事も、多大に時間を要した事業であり、戦いであったのである。
当時、征夷大将軍或は征東大将軍と称せられた貴人・武人に率いられた先々で闘った相手達は読みとして「えみし」と云われた。
「えみし」は現在「蝦夷」と漢字を当てる事が通例となっているが、現東北地方攻略の際、「えみし」は日本海側と太平洋側に依って当てる字が異なっていた。太平洋側(海道側)の「えみし」は「蝦夷」であり、日本海側の「えみし」は「蝦狄」と当てる。双方は同じく「えみし」と呼ぶも、北征当時に敢えて分けて記述していた事で、当時の状況の一端を推量する事が出来得るかもしれない。
序に書いておこう。
当時支那に於る漢民族以外の異民族を称する際、「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」と称した。
「南蛮/南蕃」虫を多く用い(というより多く居たのだろう)る人々である。
(「蛇の種なれば虫をしたがへ」)
「西羌 (転じて西戎)」羊を多く用いる人々である。
(「西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ」)
「北狄」犬を多く用いる人々である。
(「北は犬の種なれば、犬をしたがへ」)
「東夷」「大なる弓の如く命長らえる」人々である。
(「たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふ」)
北畠親房『神皇正統記』より
更に直後の記述(裏書に云ふ)では、東夷の「夷」の字に対しての更なる記述が見られる。
夷説文曰 当方之人也 从大从弓 徐氏曰 唯東夷从大从弓 仁而寿 有君子不死之国云
仁而寿 未合弓字之義 弓者以近窮達也云 若取此義歟
つまり、「夷」の字には、支那側から見ても他の諸民族と異なり差別的意味合を含んでいない。
是は「やまと」を指す「倭」も同じ事が言える。
北畠親房の所見では(当時易姓で王朝が目まぐるしく変わった支那ではどの王朝か資料ひっくり返さないと駄目だが)謁見の際国名を尋ねられた時に「我が国は〜」と返した所「我が」を国名と受け取ったが故に「倭」を当てたと。「倭」は「委」に通じる。其版図(南鮮から日本列島=所謂東夷)を「委ねた」意味合いもあるという所見もある。だが、「委」であると同時に「倭」は中華思想から見た蔑視的視点がある事を当時の日本人も気付く訳であり、故に「やまと」を「倭」に当てる事を止めて「(大)日本」「大和 ("わ"を別字とする)」と変遷した訳だ。
「北狄 (滿洲通古斯)」「西羌/西戎 (蒙古/西蔵/東土留喜須丹"新疆畏兀兒")」「南蛮 (安南/交耻支那)」「朝鮮/鮮卑 (注釈はいらないだろう)」「東夷/倭 (説明いらないだろう)」各々エライ云われ様だが、少なくとも『山海記』から連綿と続く日本に対しての記述の中で、「夷」の字には或種の畏怖もあった訳だ。是は否定すべき事ではないと思う。漢字の音訓は意味が異ならない。是は日本人が漢字を国語表記の文字と定めた際に残した偉大な遺産であると感じる。故に漢文が読める訳だ。其処(「夷を用いた由来」)を無視してはいけない。
筆記者は昨今の古代史の扱いには辟易する物を感じる元考古学を生業にした者であるが、「卑弥呼」を啻「卑弥呼」と称し、「邪馬台国」を啻「邪馬台国」と称する戦後たかだか64年の流れには否定的感を有する者である。
「卑弥呼」は「ひみこ」であるが、「ひめみこ」であり「女王」若しくは「女皇」と記すべき物であり、「神宮皇后」が夫れに倣うのである。
「邪馬台国」は「やまたいこく」であるが、「やまとこく」であり「日本国」「大和国」「(最低でも)倭国」とするべき物である。もっと云えば、「やまと」を以て「日本」「大日本」を当てるのであり、『魏志倭人伝』の記述を其儘使うのは由々敷き事と考える。
国家の歴史は官製の正史である六国史をベースとするべきであり、神代の扱いは更なる精査・推敲を重ねつつ考察すべきである。
筆記者も別に日本民族の一部分(或は国津神が結局は遡れば同族である事を鑑みれば全て)が神の子孫という考えはない。啻、皇祖皇宗及藤原氏、物部氏の祖先が神であったという伝承は伝承として守りつつも、歴史学的にどのような推移で東征が行われ、日本の国家としての版図が拡がり統一したかを考察すべきものと考える。
・・・・・・・・無駄な文だが、茲に記して置こう。
「蝦夷」の内日本海側の「えみし」に「蝦狄」を当てた事は注視に値する。北狄との交流、商交が有った事を十二分に匂わせる物であり、特に日本海側に関しては非常に長い間蝦狄を祖とする地方部族に司を任せてもいた。安倍氏転じて安東(安藤)氏がそうであり、清原氏もそうだ。清原氏は後に藤原と改姓し、奥州文化の礎を築く事となるが、奥州藤原氏は出自は所謂蝦夷の系列なのである。
日本は、というか、政府・幕府は大日本居住国民に対して同化政策を施す事を重点に置いていた。現東北管内に於ては移民政策が奨励された。和人の流入と云われる物であるが、逆に平安期は大規模に蝦夷の西日本への移民が「強制的」に行われた時でもある。夫れは現今では「文化の抹消」という事になる訳ではあるが、西日本の文化が流入する事に依って、東北では奥州藤原の文化があった。
平安期の東北征定から鎌倉幕府の奥州攻めを経て、蝦狄を祖とする安東氏は幕府より北東北を管轄する権限を大幅に与えられる。前九年の役で著名な安倍貞任の息子、高星丸の子孫。亦安倍氏は神武天皇東征の折大和地方で抗戦を張った長髄彦の子孫と伝えられてもいる。
『東日流外三郡誌』を持ち出すまでもなく、安東一族の記録は当時より記録として厳然と残っている。『保暦間記』では北条義時執権の頃、安藤五郎が東夷地の支配として置かれたとされ、『諏訪大明神絵詞』では安藤太が蝦夷管領となった。
『保暦間記』
「元亨二年の春奥州に安藤五郎三郎同又太郎と云者あり。彼等が先祖安藤五郎と云者。東夷の堅めに義時が代官として津軽に置たりけるが末也。」
茲に『諏訪大明神絵詞』を一部引用する。
諏訪大明神絵詞 / 小坂円忠 編
成立年 延文1年頃 (1356頃)
内容説明 信州諏訪大社の縁起画に付せられた絵詞。14世紀初頭の津軽安東氏の争乱記事があり、当時蝦夷地に住んでいた日の本、唐子、渡党の3類にふれる。 活字翻刻本:続群書類従三輯下、信州史料叢書3、諏訪史料叢書2
<諏訪大明神絵詞>
元亨・正中のころより嘉暦年中に至るまで、東夷蜂起して奥州騒乱することありき。蝦夷が千島と云へるは、我が国の東北に当て大海の中央にあり、日の本、唐子、渡党、この三類各三百三十三島に群居せり。今一党は渡党に混ず。その内に宇曽利鶴子別(うそりけしべつ)と萬堂宇満伊犬(まつまえ)などと云う小島どもあり。この種類は多く、奥州津軽外が浜に往来交易す。夷一把と云うは、六千人なり。相集まるときは、百千把に及べり日の本、唐子の二類は、その他外国に連なりて、形相夜叉のごとく、変化無窮なり。人倫、禽獣魚肉などを食して、五穀の農耕を知らず、九訳を重ぬとも語話通じがたし。渡党は和国の人に相類せり。但し髭鬚多くして、遍身に毛を生ぜり。その語、俚野なりと云えども大半は相通ず。この中に公超霧をなす術を伝へ、公遠隠形の道を得たる類もあり。戦場にのぞむ時は、丈夫は甲冑・弓矢を帯して前陣に進み、婦人は後陣に随ひて、木を削りて幣帛の如くにして、天に向かひて誦呪の体あり。男女共に山 を経過すと云へども、乗馬を用いず、その身の軽きこと、飛鳥・走獣に同じ。彼等が用ゆる所の箭は漁骨を鏃として、毒薬を塗り、わずかに皮膚に触るれば、その人斃れずと云ふことなし。根本は酋長も無かりしを、武家その濫吹を鎮護せんために安藤太と云ふものを蝦夷管領とす。これは上古に安倍氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり。その子孫に五郎三郎季久・又太郎季長と云ふは、従父兄弟也。嫡庶相論の事ありて合戦数年に及ぶ間、両人を関東に召して理非を裁決之処、彼等が留守の士卒数千の夷賊を催し集て、外が浜末部、西の浜折曽関等に城郭を構て相争ふ。両城険岨によりて洪河を隔て、雌雄さらに決し難し。因茲武将大軍を遣て征伐すと云へども、凶徒彌盛にして、討手宇津宮が家人紀清両党の輩多以命を堕。漸深雪の比に及ぬ。貞任追討の昔のごとく、年序をや累ねんと衆人怖畏をいたす所に、或夜深更に当社宝殿の上より、明神大竜の形を現て、黒雲に駕して辰巳の方をさして向給ける。諏訪郡の内、山河大地草木湖水、皆光明に映徹せり。同夜同時に奥州に現じ給けるとぞ後日には注進せし。ここ に季長が従人、忽に城郭を破却して、甲をぬぎ、弓の弦をはづして官軍の陣に降す。三軍万才を称して則関東に帰りける。凡神の奇特、三韓征討以来、延暦桓武の御宇には、将軍と身を現して官兵の戦功を扶助、文永・弘安の皇朝には、大竜と身を現して蒙古の強暴を対治す。嘉暦近年又以かくのごとし。本朝擁護の神徳、異賊降伏の霊威影響の冥応、古今日なる者也。
此処で、タイトルである「樺太」との絡みを見出だせるのである。
安東氏の東北北部(北條直轄領)から蝦夷への「版図」は何処迄拡がるものと解すべき物か。
宇曽利鶴子別
一説函館の古名。ウスケシ(宇須岸)『新羅之記録』の転訛。
一説宇曾利(下北)と鶴子別は別地名。応仁ニ(1468)年ニ月、安東師季が紀州熊野神社に納めた、「津軽外浜宇楚里鶴子遍地悉く安堵せられん事」を祈った願文を引用し、「津軽外ヶ浜、宇楚里、鶴子遍地(つるべこち)と読んでいる説『西津軽郡史』『青森県の歴史』。
安東氏が蝦夷管領となった時、蝦夷(えぞ)には「日の本」「唐子」「渡党」の民族が在住していた。
「唐子」は「蝦狄」の言葉としての由来(つまり「狄」)となった様に、大陸(滿洲通古斯)の影響が強い一派だろう。
「日の本」は日本人と解してはいけない。之は所謂アイヌである。
「渡党」は現北海道渡島地方を拠点とする和人と交流が深かった「蝦夷」と解する事が出来よう。亦、和人であるという事が出来る。
問題は、「日の本」である。現在に於てもアイヌ言葉は研究に値する程に所謂日本語と異なったかのように見える体裁を持つ。当時通訳が非常に重要であった事は当然伺えるのである。
文脈から推測される夫々の居住範囲を記してみようか。
「渡党」津軽・渡島地方から蝦夷地中央
「日の本」蝦夷地全般から北蝦夷地(樺太)・千島列島・勘察加
「唐子」蝦夷地北部から北蝦夷地
文化の違い故に「日本」側から見た「東夷」という記し方をしているのが注目されるが、夫れでも大日本版図の居住人という扱いである事に注目出来よう。
之を支那側からの視点で記録を漁れば、樺太には当時複数の「種族」が居住していた模様である。「骨嵬」「吉烈迷」と呼ばれる種族だが、其内「吉烈迷」は黒龍江沿岸に主に居住していたと記されている事から、樺太には「骨嵬」が住、夫れは日本では「唐子」と称されていたと解すべきである。
安東家が自国(安東氏所領/委任のという意味で)版図として北は樺太迄含んでいたかは其処に確たる証拠が見出だせないと捉えるか、日本帰順を示した北のアイヌという解釈で捉えるかで可成北方史の様相が変わる。
安東氏が蝦夷管領であった頃に重なるが、昨今頓に無視されている日本史上重要な事例として、「北の元寇」があった。皇国の危機であった文永・弘安の役より以前10有余年前、樺太に於て、幕府の助力を得る事が叶わなかった北方からの国土侵略があった。
文永元年(1264年)、樺太の骨嵬と吉烈迷(吉里米)の間に紛争が勃発する。吉烈迷勢は劣勢に立つが、蒙古に救援を求めた。蒙古軍は樺太を攻撃して、骨嵬を占拠する事となる。骨嵬は蒙古に降伏して、以後朝貢を約する事となった。
文永元(1264)年
『元史 巻五』
十一月 辛巳 征骨嵬 先是 吉里米内附 言其国東有骨嵬 亦里于両部 歳来侵疆 故往征之
文永二(1265)年
『元史 巻六』
三月 癸酉 骨嵬国人襲殺吉里米部兵勅以官栗及弓甲給之
弘安の役後も元は日本侵攻を諦めていなかった事が元史には記述が残る。
弘安六(1283)年
『元史 巻十二』
秋七月丙辰、免徴骨嵬軍賦
論阿塔海所征日本船 宜少緩之 所抱商船 其悉給還
其後、骨嵬は元に反旗を翻し、其支配から逃れようと画策する事になる。
弘安七(1284)年
『元史 巻十三』
辛亥 征東招討司聶古帯言「有旨進討骨嵬 而阿里海牙 朶刺帯 玉典三軍皆後期 七月之後 海風方高 糧仗船重 姑宜少緩」従之
元は、強大な兵力(以万人)を冬に樺太に寄せている様子が伺える。
弘安八(1285)年
『元史 巻十三』
冬十月乙巳(略)詔征東招討使塔塔児帯 楊兀魯帯以万人征骨嵬 因授楊兀魯帯三珠虎符
骨嵬も亦大陸反攻を志、果敢に攻めたてている時もあった。
永仁五(1297)年
『元分類 巻四十一』
大徳元年五月、骨嵬賊瓦英、乗吉烈米所造黄窩児船過海
至只里馬觜子作乱
八月 吉里迷人奴馬失吉過海 至為子砦 遇内豁田/童(ないかと)人 言吉烈米人牙乞才称 骨嵬賊与不忽里等 欲以今年比海凍 過果夥欲虜掠打鷹人 乞討之
既而遼陽省咨 三月五日 吉烈米百戸兀勧吉等来帰 給魚糧網扇 存恤位坐 移文管兀者吉烈米万戸府収官
六月五日 官軍敗賊於吸刺豁田/童
七月八日 骨嵬賊玉不廉吉古自果夥過海 入拂里河 官軍敗之
そして遂に一度は元に下る事になるのである。時に徳治三/延慶元年(1308年)、骨嵬は元に降伏した。
徳治三/延慶元(1308)年
『元分類 巻四十一』
至大元年 吉烈米百戸乞失及言 骨嵬玉善奴欲降 遣大河沙者至訥里干 又吉烈米人多伸奴・亦吉奴来言 玉善奴・瓦英等乞降 持刀甲与頭目皮先吉 且言 毎年貢異皮 以夏間答刺不魚出時回還
此甚大な情報が時の鎌倉幕府に入らなかったのだろうか。少なくとも北方交易で幕府より直轄を委任されていた安東氏はどうだったのか。
正中二年(1325年)、北条高時が蝦夷管領を又太郎季長から従兄弟である五郎三郎季久に代えると、争乱は幕府への反乱に発展した。翌、嘉暦元年(1326年)には幕府から追討を受け、嘉暦三年(1328年)に和睦した。蝦夷大乱、或は津軽大乱と呼ばれる反乱だが、其裏には何があったのか。
一説、此反乱(或は一家内紛)を、文永元年(1264年)から徳治三年(1308年)の40有余年という長期に渡った骨嵬(唐子)と元との交戦後の講和を巡る方針争いによるとする見解がある。
日本は或意味武家政権が樹立して以来地方分権が進んだ国家となったと言える。故に国司は後世諸大名に変し、各々の領域で力を蓄え、料地を巡り争った訳だ。
其内、安東家、或は豊臣政権移行の蠣崎氏(松前氏)ら蝦夷島南部の「渡党」は、後世北の版図を磐石な物としようとしていた。
「日の本」「唐子(骨嵬)」の種族間の争いは絶えず、「日の本」が「唐子(骨嵬)」平定を申込み骨嵬を平らげ帰順を得た事例もある。
基本的に先述した様に、日本という国家は無意識か、意識的にか古来同化政策を執り来たった。
神宮皇后の三韓征伐の折は、南鮮の民族が当時は和人種であった事に注視しなければならない。高麗/高句麗系統の現朝鮮半島に居住する民族とは異なるのだという事を先ず念頭に入れなければならないのである。故に征伐後白村江に到る迄の数百年は南鮮を皇国の大陸に対しての橋頭堡足らしめる事が可能だったと云えるのである。
同化政策故に、蝦夷(アイヌ)の反乱は16世紀戦国時代や織豊政権下でも、江戸幕府初期でも続いた。松前が松前氏(松前/蠣崎慶広)に依って平定され、蝦夷地の本格的開拓に着手したのは確かに東北蝦夷/蝦狄の平定より数百年の、下手をすれば千年のギャップがある。樺太は更に遅れた。だが、強制とも云える同化政策の根底は基本的に「倭奴(アイヌ)居候所、則大日本」という根底の考えが有るが故の事と考える。
亦、強制という書き方をしたが、樺太蝦夷である骨嵬は日本に一度帰順を示している。蝦夷地内での争いの果てとは言え、帰順を示した事は事実であって、無視出来得ない。
亦、永仁五年(1297年)の骨嵬大陸反攻作戦は、果たして其武具を何処より仕入れたのか。茲に交易で深く結び付き、一度は帰順した北東北の安東氏と其一派に繋がるのである。十三湊の交易は膨大であった。西日本と北日本を結ぶ要港であり、対外交易も亦、都・幕府から遠く離れているが故に盛んであった。樺太骨嵬との交易品中日本武具が無かったという解釈は考えられない。
以降の歴史はアイヌ主点ではないにしても樺太と千島の国境闘争史で記述しているので割愛する。
時は移り行き、明治以降の急ピッチに進められた移民政策と開拓は、確かにアイヌと和人との確執を生んだであろう。其中で色々な事が起き、或は屈辱を見、或は協力し、恐怖と寒さ、飢えと疲労と戦い北海道と南樺太・千島を開拓して行った筈である。
斯様に、歴史的にアイヌと和人は重要な繋がりを有し、其二つと更に南の琉球を加え、そうして「日本人」であるのである。確かに国の歴史は東征より始まり、北征に向かい、二千有余年を経て最後には樺太の防衛と千島の防衛に失敗して今に到っている。
個人的にはお互いを分断さすような政策を執るが如き事は止めてもらいたい物と考えるのである。
090628昼夕 此処迄記す。
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